北山田商業振興会の歴史

江戸時代から続く桜の名所の山田富士公園、公式プールが4つもある横浜国際プール、「さくら時計」のある南欧風駅舎の北山田駅の三つの宝を大切にしながら、北山田町内会、山田富士公園愛護会との「三人四脚」で商店街と地域の発展を展開しています。

毎年、春4月初めの山田富士公園”さくら祭り”、夏7月末~8月初めの北山田盆踊り大会、秋10月中旬の秋祭り・お神輿大会、冬1月第2週の北山田どんと焼きを行っています。  それぞれ数千名~2万人の方々がご参集されます。

2008年(平成20年)3月29日に、待ちに待った「グリーンライン」が開業し以来、北山田駅周辺は日に日に賑やかになっています。

おかげさまで、北山田駅の乗降の方々は、順調に伸び、一日2万5千人を超しました。
交番も消防署も、JA横浜北山田支店も、北山田郵便局も横浜銀行も出来ました。パチンコ「オータ」さんもガソリンスタンドもあります。 大型スーパー、ドラッグストアは5軒です。ファミレスは4軒、つくしさん、ときのやさん、ラディカさんなど趣のあるレストランは9軒 、スウィーツのお店は、エールウーエールさん、YUJI AJIKIさんなど3軒、美容院はcoco roomさん、DIGさん、ル・ジャルダン北山田さんなど7軒できました。 医院も内科、小児科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、歯科と揃いました。  また北山田町内会、都筑警察と共同で定期的に防犯パトロールを行っています。 こうして、北山田駅は安全・安心な街として着実に発展しております。

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 北山田商業振興会探訪ビデオ:2014年(平成26年)製作


 

北山田駅、地上駅舎完成の経緯

横浜市交通局が当初発表した計画では、「北山田」駅は地下駅で、地上部分は出入口程度でしたので、上記の書簡や直接の話し合いで、横浜市交通局に北山田駅舎建築を強くお願いいたしました。その結果、現在の姿(南欧風の駅舎と時計台)になりました。こうしてグリーンラインは、2008年(平成20年)3月29日開業にこぎつけました。

2001年(平成13年)12月4日「横浜環状鉄道北山田駅地上駅舎の要望書」

山田富士の今昔

北山田は、以前は都筑郡中川村山田二区と言われ昭和14年4月横浜市に合併して北山田になりました。戸数85戸の静かな農村であり、田園約30%、畠50%、竹林20%の経営でありお米は自給し出荷もしており、野菜は東京、横浜、川崎に共同出荷し各市場の注目の的で、特に朝堀の竹の子は近郊市場に貴重品扱いの産物であり山田の誇りでもありました。此の町の誇りは、山田富士山です。起源は定かでありませんが、富士信仰の山として作られたと聞きます。徳川幕府の一時期、信仰廃止例の時中断されたと聴きますが、私共幼い頃、富士の山開きの季節、住民が白装束に身を包み金剛杖を突いて、列をなしロッコンショウジョウを唱えながら頂上まで上がり、遥か静岡の富士、大山に五穀豊穣、家内安全を祈願していたのを記憶しております。此の富士は地元、長泉寺の寺領であり麓に草葺の太子堂があり集会所として借用したのが、現公民館の始まりです。将来は富士を中心に公園に指定され市に移管されます。いつの頃から住民が管理しているのか、古老に聞いても判りませんが、此の近郊に七富士ありましたが、昔の侭現存しているのは、北山田の富士だけと紹介されております。北山田小学校からは静岡の富士が良く見えますので校章は富士になっております。故郷が消えた住民とすれば山田富士は心の故郷です。麓の公民館(以前は庭が広い)で出征兵士を激励し村外れまで送って行くと、必ず、富士山を振り返り、脳裏に焼き付け家族を頼むと旅立った大半は帰らなかった。桜の季節になると戦地から富士の桜が咲いたかな、と戦時郵便がとどいた。毎年4月8日の恒例のお釈迦様の花祭りには、信仰は別として、甘茶をお釈迦様にかけ、現世に感謝して花祭を実施しております。山の高さは造成により8m位埋り面積も小さくなりました。南から上がる道を吉田口、西からの道を御殿場口と言われております。昭和13年だと思いますが、富士山の頂上付近に赤松の素晴らしい大木が二本ありましたが、天皇陛下が白馬に股がり陸軍の観兵式に立たれるバックの松にと宮城前に移植されており、現在も無事とききますが、当時は大変な騒ぎでした。昭和44年に港北ニュータウンの中に取り組まれましたが、此の広い第一、第二区域で町全体が造成区域に入ってしまったのは北山田たけです。最初は驚き、到底納得出来る事とは思えませんでした。一番心配したのは、お年寄りの理解が得られるかでした。古い農家は400年の歴史があり墓もあり移転は至難の技と思いましたが、古くからの連帯意識の強さから揃って仮移転して頂き、造成ができました。お年寄りの中には未だ昔の草葺の屋根の母屋に、田畑を畦道を思いを馳せ懐かしんでおられます。住居表示が一部実施されますが、将来は北山田は1から7丁目までになります。毎年人口定着と造成完了をみながら実施されるようです。平成6年11月6日港北区から都筑区が分区になり昔の名前になりました。北山田のお隣同志同じ地域に住む者として、理解し合い笑顔で暮らしたいものです。

著:男全冨雄「失われたものの記録:望郷」より抜粋

*男全冨雄様は、この北山田の長老で、さらにパソコンの名手です。
「失われたものの記録:望郷」は、素敵な絵入りの著書です。

 江戸時代から続く「山田富士塚」

江戸時代に当時盛んであった富士山への山岳信仰の象徴として「山田富士塚」が出来た。以来、百数十年に渡り「地域を見守り」「地域住民の心のより所」として愛され来た「塚」を持つ。

現在も普段の散策客、春の桜の花見客、山田富士公園“さくら祭り”、夏の盆踊り大会、秋のお神輿、冬のドント焼き等で賑わい、新旧の住民達や地域のシンボルとなっている。今も山頂からの眺望は充分に楽しめ、富士山や周囲の新しい街並みはもとより、発展する横浜の象徴ランドマークタワーや新横浜プリンス等の最先端の高層ビルの景色も楽しめる。

数ある塚の候補地の中から当地が選ばれたのも元々の地形や景色が優れた特性を持っていた事に因るものと思われる。

 

港北ニュータウンの開発の歴史1(PDF)

港北ニュータウンの開発の歴史2(PDF)